1-8. 現実世界 泡沫あるいは沈殿
祭り囃子の音が聞こえる。
夜風に微かな火薬の匂い。
威勢のいい的屋の声と行き交う人々のざわめき――。
私は浮いている。
違う――浮いているのではない。
目を閉じて体を預けている。
そう父の背中に――父は寝たふりをした私を背負っているのだ。
時々、父が立ち止まり、誰かと挨拶を交わしている。
父に話しかけようとする大人は多い。
そして父もまた、彼らを邪険に扱おうとはしなかった。
それでも振り返って考えれば、大人たちは遠慮していたのかもしれない。
幼児を背負った当主と長話はできない――それでもせめて挨拶だけはしたい。
当主様が街中を出歩くなど滅多にないことなのだから――。
父の体温を感じながら、私は安心していた。
医療用ベッドに固定された被験者の眠りを妨げぬため、部屋の照明は絞られていた。
肌も髪も白い少女がベッドサイドに侍り、被験者の様子を静かに伺っている。
被験者の胸がゆっくりと上下している――被験者の呼吸は安定していたが時折、小さく不明瞭な寝言が漏れ出ていた。
脳波計モニターは被験者が半覚醒状態であることを示している。
被検者を眺めていた少女が視線を部屋の扉に移すと、きっかり3秒後に電子錠が解錠され、白衣を着た背の高い女性が入室したきた。
「社、被験者はどう? 異変はない?」
白衣の女性――香月夕呼はダルそうに髪を掻き上げた。
「順調です。想起連鎖速度は正常値内です。生体脳も補助電導脳も安定しています」
社と呼ばれた白い少女はモニターを操作して情報を表示した。
「彼女の情報最終収集日は横浜撤退戦の前だっけ?」
「出撃の前日です」
「記憶のロスが少ないのは助かるわね。真面目にセーブしてくれるキャラで良かった」
白い少女/社霞はこくりと頷いた。
「……それにしてもこの子、肌艶がいいわね。私も取り替えちゃおうかしら? 予算は誤魔化せるし」
香月夕呼はにやりと笑った。
専務などという面倒な役職を引き受けたのは自由に予算を使えるから――辛酸を嘗めた助教時代を繰り返すつもりはなかった。
「記憶転写が確実に成功するとは限りません……」
社が答えた。
記憶を収集する際にノイズが入る可能性がある。
人の記憶は曖昧であり、時に自分自身ですら騙そうとする。
強い願望は妄想となり、ありえなかった出来事さえ現実のように記憶してしまう。
記憶が真実なのか、はたまた妄想なのか――本人に判断しろというのは酷だ。
そして収集した記憶を生体脳に焼き付ける際にミスが発生する場合もある。
だから補助電導脳を介して記憶人格を生体脳に焼き付ければ、それで作業が終わるというわけではないのだ。
「大丈夫じゃない? 素体をたくさん用意しておけば、どれかは成功するでしょ」
実際にDNAはすでに登録済み――肉体はいくらでも再生可能だ。
たとえ手足を失っても、数カ月以内に新品の体にできるだけのシステムは確立している。
「……もう処分は嫌です」
聞こえないような声で社が答えた。
途端に香月夕呼の脳裏に青白い肢体が浮かぶ――記憶の焼付に失敗して生体脳がフローし、廃棄処分にせざるを得なかった素体たち。
遺体安置棚に並べられた血の気のない肉体――どれだけの犠牲者を自分は生産したのだろうか。
「ふざけてる場合じゃなかったわね」
香月夕呼は肩を竦めた。
肉体はいくらでも再生できる――だが、人間の本質である記憶の移植はそうはいかない。
左手を伸ばし、被験者のモニターを自分に向ける。
記憶転写作業は順調に進行している――自分はこの問題に立ち向かい続けてきた。
「この子、以前に転写を失敗したことあったわね」
「……はい。想起連鎖中にパニックを起こして廃人に……」
「心的外傷持ちね……。いい方向に転んでくれれば強いモチベーションになってくれるのだけど……」
記憶転写において心的外傷は大きな問題のひとつだった。
想起連鎖で記憶再現が始まった時、精神的外傷に耐えうるだけの精神力を有していないと希死念慮から鬱状態に陥ってしまう。
この状態から回復できる被験者は稀であり、多くは最終的に自死を選んでしまうのが現実だった。
「ですが、前回は成功しました。頼りになる方でした」
記憶の中の被験者――確かにそうだった。
若いが熟練の衛士だった。
やや意固地な面もあったようだが、総じて人当たりの良い女性だったと記憶している。
「パニックを起こしたのはどのあたり?」
「……多分、初陣の記憶を再現している辺りだと思います」
順序立て、系統立てて理解させなければ、心理的外傷で精神がバラバラになってしまう可能性がある。
だから、ある程度の記憶の定着が確認された段階で、被験者には順繰りに思い出して貰う必要があるのだ。
幼少期――自分は無敵だと思えた頃。
思春期――肉体の変化が始まり、世界と自分が別だと認識する時。
その流れの中で人は失敗を重ね、その分だけ耐性を得る。
だが、その耐性の元となる記憶の転写が弱かった場合、心理的外傷となる記憶を思い出した瞬間に人格崩壊が始まってしまう。
記憶再生実験が始まった当初、多くの被験者の精神が壊れた。
あまりにも精神崩壊被験者が続くので、心的外傷となる記憶を特定し、それを削除する手段すら検討した。
だが、記憶情報は様々な記憶と密接に絡んでおり、ピンポイントで記憶を削除するのは困難だった。
何より厄介なのは個人のアイデンティティーを確立させるためには、ストレスや心的外傷というマイナス要素が必要となることだ。
だからどんなに辛い記憶であろうとも――本人が心の奥底に沈めた記憶の欠片でさえ、掘り起こして再度見つめ直させなければならない。
眼の前で親が事故死する瞬間を目撃した幼児に、もう一度同じ経験を味合わせる――それと同じだ。
時系列に従って経験させていかないと、記憶の定着に抜けが生まれ、場合によっては人格が変わってしまうのだ。
「う……っ…………。や、………ぉ…………」
ベッドで寝ている被験者の口から小さな嗚咽が漏れた。
「……データ転写、現在74%。素体ストレス値が上昇中」
データを読み上げる社――緊張している。
香月夕呼は念の為、もう一度モニターに映った情報を読み直した。
駄目だ――何度見返しても内容は変わらない。
「ネガティブスパイラル反応確認。間もなく許容レベルを突破します。このままでは定着障害が発生する可能性があります。前々回の心理バーストと同じポイントです」
「思春期入りしたってことね。――強制介入をレベル3で。レベル3までは許可よ」
「――了解。サイキック・ドライビングを開始します」
ヘッドセットを装着した社が精神感応機のメモリゆっくりと合わせる。
キーンという電子音が小さく鳴っている。
「手伝う」
香月夕呼は専用のヘッドセットを精神感応機に有線接続し、高度介入に備えた。
「社、フォローお願いね。絶対に見失わないで」
自分の声がいつもより硬い。
「問題ありません」
モニターから視線を外さずに社が答えた。
「前回も同じ所で引っ掛かったわね、この子は――」
人生を左右することになるであろう大きな経験――記憶を彷徨う彼女は、いまそこに立ち向かっているのだろう。
放っておけば精神崩壊の確率は高い。
ならば救助に入るのみ――介入手段はあるのだから。
社の横顔をちらりと見る――社は被験者に集中している。
「助けるわよ」
そう声を掛けた。
助けます――小さな声で返ってくる。
だが、そこにどれだけの決意が込められているか。
香月夕呼はよく知っていた。