0-11. 現実世界 復活
2023年9月5日
遠くで音が聞こえる。
液体が動いてる感触――遠くで洗濯機が回っているような――あるいは大きなドラムが一定のリズムを刻んでいるような不思議と懐かしい感覚。
ぼやけた聴覚が捉える断片的な情報を脳は解釈という処理をせず、ただただ聞き流すだけだった。
「……手術は成功。バイタルは安定してる。――とりあえず山は越したわ」
「出血による脳へのダメージは?」
「意識が戻らないと何ともいえないけど、とりあえず大丈夫と言っておくわ。……ただ、こいつは特殊だから」
沈黙。
「様子を見て駄目なら廃棄するわよ」
沈んでいく――世界がまた遠くなる。
何かを自分は求めている。
だが、それが何なのか――把握できずにいた。
闇があった――断続的に破裂音――微震と大気の震え。
誰かの悲鳴――挫折感に襲われる。
自分は失敗した――おまえがクソだから何もかも上手くいかない――呪詛が絡まる。
そのまま小さくなっていくべきだ――浴びせかけられる呪いの言葉を自然と受け入れる。
生命は淘汰されるものであり、失敗した自分が消えていくのは当然だと理解していた。
だが――誰かの気配が、それを許してはくれなかった。
暗闇から意識が浮上する――世界は光に満ちいていた。
徐々に意識に芯が入っていく――あやふやだった世界が現実へと変わる。
天井に埋め込まれたLEDの白い光――自分の部屋ではないと思った。
「……ここは?」
カラカラの食道に痛み――異常なまでに喉が乾いていて言葉が出しにくい。
「お? 目が覚めたか管理官」
誰かが自分を見下ろしている――特徴的な髪の色。
ボトルが差し出され、ストローを咥える――嚥下すると乾いた肉体に水が染み込んでいくのがわかった。
「……千木良世さん?」
「いかにも千木良世さんだぞ」
私服なのだろう――まるでこれから走りにいくかのようなスポーティーな姿――戦いは終わっていると連想できた。
自分は助かったのだ――半分ぼやけた視界に映った兵士級の姿が脳裏に浮かぶ。
「ここは……どこですか?」
「ベッドの上だぞ」
それはわかっている――場所がどこか知りたかったのだ。
「医務室……かな?」
「うむ、医務室だぞ」
思考がつながった。
降機した自分は要救助者を発見した。
だが、次の瞬間に兵士級の一撃を受け、意識を失ったのだろう――千木良世に救助の礼をしなければならないと思った。
上体を起こそうとして突如痛みに襲われた――強い吐息のような悲鳴が小さく溢れた。
「まだ駄目だ。動くと痛いぞ? ――両脚を切断したからな」
両脚切断――慌てて毛布を剥ぐ――そこには脚があった。
「……脚、あるけど?」
白く清潔な入院着――下穿きから足首の先が見えた。
「脚はあるな」
まったくもって酷い冗談だ。
それにしても太腿部が痛む――まるで本当に切断されたかのようだ。
千木良世の手を借りて上体を起こすことに成功したが、痛みは消えない。
「痛むだろ? まだ神経が馴染んでないんだと思う」
神経が馴染んでいないとはどういうことだろう――ベッドサイドに座っていた千木良世が内線電話を探していた。
「――千木良世です。管理官が目覚めました」
どこに連絡を入れているのだろうか――疑問には思ったが、それ以上は思考が進まなかった。
頭の中に靄が掛かっているようで考えがまとまらないのだ。
数分の後、医師が駆けつけて診察してくれた――特に問題はないようではあるが、数日間は経過観察させて欲しいと言われた。
いろいろと問題を抱えていたようですから――医師はそう感想めいた呟きを残して去っていった。
「ところで管理官、お腹減ってないか?」
腹は空いていない――喉の乾きも解消されている――問題はないと告げた。
「そうか……。良かった。――すまないが許して欲しい。見舞いの品はほとんど全部食べてしまった」
そういうことか――至極当然のこととして納得した――果物のアソートが入れてあったであろう大きな籠には数個の林檎だけが残っていた。
「管理官、入院のお見舞いには万疋屋のセットが一番良いという知見を得た。あれは美味しい」
「良かったですね」
他に言いようがない――ところで誰がお見舞いの品を持ってきてくれたのだろうか。
扉のスライドする音――見たことのある顔が入室してくる――自分に命令を与えていた人だ。
そこでようやく自分が個室にいると気づいた。
「意識が戻ったようだな、管理官」
「は、はい……えーと……」
何と呼べばいいのだろうか――そうだ、自分は記憶を失っているのだと思い出す。
「寝惚けているわけじゃないんですが……」
妙齢の女性の名前が出てこない。
「……まったく。上官を忘れるとはな? 神宮司まりもだ。戦術機部隊の統括をしている」
神宮司まりも――自分の上官という事実に違和感はない――格上の印象。
「脚は痛むか?」
「あ……はい……」
この人も千木良世さんのように性質の悪い嘘を言うのだろうか――疑問。
「意識のない間に噛み千切られた脚を切除して疑似生体を移植した。神経が落ち着くまで痛むが、そのうち普通に歩けるようになるそうだ」
擬似生体――何のことだ――不安。
「両脚を喰われながらも兵士級を始末するとは驚かされたぞ。映像も確認させて貰った。――二度見たいものではないがな」
両脚を喰われた――誰が?――自分が?
視界の片隅で千木良世がいそいそと林檎の皮を剥いている――赤い皮と白い果肉――赤い血と乳白色の肉体――嘔吐感が蘇り、反射的にえずいてしまう。
「大丈夫か?」
神宮司の手が背中を擦る――心臓の鼓動が速くなる。
「安心しろ、我が社の母体は再生医療分野では最高を謳われている企業だ。間違いなく、不自由なく動けるようになる」
再生医療という言葉から千木良世の言葉は嘘ではなかったのかと考えることができた。
「……その辺りの記憶もないようだな」
神宮司の呟き――自分が戦術機を降りたことは思い出せた。
だが――どうやって自分は生きて還ったのだろうか――頭の芯が重い。
「貴様は二ヶ月ほど意識を失っていた。出血も酷く、脳に負担が掛かった。――だから現場に戻すのは経過観察をしながらになる」
どうやら両脚を切断したのは事実なのだなと飲み込むことが出来た。
「ちなみに私は毎日様子を見に来た! そして腐らせると悪いので、見舞いの品はすべていただいた!」
ウサギの姿に加工された林檎が差し出された。
爪楊枝はないようなので指で摘んで口に入れた―――甘い――それで自分の胃が空っぽであることに気づいた。
「……ありがとうございます」
自然の甘さが精神を落ち着かせてくれる――自分は死にかけた――九死に一生を得た。
「ちなみにカテーテルを入れるのも手伝ったぞ! 私は看護師免許を取得しているのだ!」
千木良世は満面の笑みを浮かべていた。
嬉しそうだ――それはいい。
カテーテル――記憶を探る――まさか?
「カテーテル……」
意識のない患者の排泄を補助するために尿道に管を挿れて――嫌な予感に包まれる。
自分は二ヶ月の間、意識が戻らなかったのだ――だが、眠っていても生理活動は続いていたはず。
「あぁ、そうだ。あれはなかなか大変なのだ……。とりあえず、コツは掴んだので! またの機会も任せてくれ!」
なかなか大変なのだ――なかなか大変なのだ――大変なのだ……。
千木良世の言葉が脳の中で繰り返される――聞きたくなかった事実に凹む。
医療従事者の資格を持っているとはいえ、うら若い女性に陰部を弄られた事実――何よりも乙女自体が何とも思っていないらしいことも何となく辛かった。
「意識が戻れば回復は早いと聞いてる。とはいえ、まずはしっかり体を治すことを考えて欲しい」
神宮司まりもの労いの言葉が滑っていく。
「はい」
とりあえず返事をしたものの、何かを考えるのは難しかった。
「……あの日の戦いで我々は多くの戦力を失った。貴様には一日も早く現場に戻って貰わなければならない」
瞬間、思考が弾けた。
山吹色の戦術機と黒髪の女性――大地にぶち撒けられた鮮血、肉片、骨片、髪――篁唯依さんは死んだのだ。
何かあれば相談してくれ――彼女はそう言ってくれた。
優しい人だった――凛とした人だった――尊敬できる人だった――けして死んでいい人ではなかった。
すべては己の判断ミスで起きた結果であり、その責任を自分はまだ取っていない。
「……本当に自分が必要なのでしょうか? 自分の判断ミスで仲間を……」
記憶だって戻っていない――使えないゴミの判断が有能な人材を亡くしたのだ。
静寂――エアコンの発する微かなノイズのみ。
「貴様にはその能力がある。私は――いや、私たちはそう信じている」
母のように、姉のように――あるいは生徒に言い含める教師のように神宮司は言った。
だが何も言えなかった――ご配慮に感謝します――気持ちを切り替え、この事実を忘れずに職務に邁進いたします――そんなことは到底言えない、言えるはずもなかった。
「……今この時、能力がある者を遊ばせておく余裕はない」
神宮司は続けた。
「日本は東京を失い、BETAによって国土を東西に分断された。残念ながら関東圏は完全に奴らの手に落ちた。東は白河の関、西は関ケ原にて日本はBETAと対峙している」
国土分断――千木良世が林檎を咀嚼するしゃりっという音。
「誰かが戦わねば、人類は奴らに蹂躙されるだけだ」
だから戦え――神宮司の言外の言葉が自分を追い詰めてくる。
しかし、何も答えられない――篁さんを死なせた自分に答える権利があるのだろうか。
「……ミスをしたくないか? 自分のせいで人が死んだと思うか?」
頷く――涙が零れた。
自分の愚かさに打ちのめされていた。
御剣さんほどの度量は自分にはない。
朱土岐さんほどの計算もできない。
千木良世さんほど運命に身を任すつもりにはなれない。
ただ――篁さんの理想には共感することができた――自分にも手が届くのではないかと思えた。
彼女の生き方を美しいと感じ、その振る舞いを真似することができればと心の何処かで思っていた。
それなのに――。
掌に爪が食い込む――拳がぶるぶると震える――自分を握り潰せるのであれば潰してしまいたい。
その拳に優しく手が添えられた。
「……良い感性だ」
視線を上げる――神宮司が自分を見ている。
「自分に対する怒りを正しく昇華しろ。そうすれば貴様は強くなれる。死者はおまえを責めたりはしない。祟りもしないし、化けて出てくることもない。――だから死人に責めて貰って楽になれることはない」
死者は祟らない――現実を動かすのは生者であり、死人ではない。
それに少なくとも篁唯依という人物は他人を祟ることはないだろう。
記憶を無くした自分には、篁唯依という人間の情報は僅かにしかない。
それでも彼女が人を祟るような人物ではないと信じることができた。
「おまえの苛立ちはおまえにしか晴らせない。――いまはそれだけを覚えておけ」
頷く――息が漏れた。
神宮司の手がとんとんと肩を叩いた。
嗚咽――篁唯依という女性の生き方を自分は生涯忘れてはならない――そう決意した。
「……あぁ、それとひとつ、言い忘れていたことがある。貴様たちが捜索していた不法居留民の子どもたちは回収された」
驚き――息を呑んだ。
「貴様の決断は間違いではなかった。そして、篁の挺身も無駄ではなかった」
あぁ――何かが流れていく――でも、これで許された気持ちになってはならないと確信していた。
これは自分の成果ではなく、篁さんの残してくれたものなのだから――。
「今日はもう休め。明日、また様子を見に来る」
ありがとうございます――小さな囁きであったが、神宮司にそう返すことができた。
神宮司が退室すると千木良世が改めて林檎を差し出してきた。
そのひとつを頂戴する――善悪知識の実――記憶のない自分が食するに相応しいのかもしれない。
「……ちなみに管理官と避難民は私が回収した。管制ユニットの乗車率は200%だったぞ」
「すみません……ありがとうございました」
「なに、気にするな。――ちょっと面白かったし」
変な人だなと思った――どう答えるべきか――先ほどまでの神宮司の会話とは違った意味で答えが見つからない。
「では、私もまた明日だな! ――あぁ、ちなみにここの病院食はなかなかイケる。明日の朝食を期待して待つがよい」
鼻歌を口ずさみながら千木良世が席を立つ。
部屋を出る際に電気を消してくれた。
誰もいなくなった暗い部屋でただひとり――今日だけは気が済むまで泣こう――情けない自分は何処かに流してしまおう。
明日以降はやり直す――それがどんなに厳しい事態であっても、新しい自分としてすべてをやり直す――そう覚悟した。
夜が静かに更けていく――朝日が昇るまでに戦える自分にならなければ――。
清潔なシーツと暖かな毛布――病室という楽園から全てを捨てて戦いに赴くのだから――。