0-0. 分岐点 Rootage
暗闇の中、バケットシートに深く腰掛けて軽くキーを捻る。
背中に軽い振動を感じつつ、懐中から煙草を取り出した。
右手で髪を掻き上げる――雨に濡れた髪から水滴が落ちてくるのが不快だった。
電子ライターを強く握ると暗闇の中にオレンジ色の光点が明滅した。
激しい雨が愛車の外装をバタバタと叩いている。
大きく重い雨粒だった。
愛車は古いスポーツカーのレプリカモデルであり、暖機が欠かせない。
雷鳴――大型台風の接近に大学から帰宅指示が出されていた。
処理すべき作業は残っていたが、指示という名の命令には従うしかなかった。
ワイパーがフロントウィンドウに付いた雨滴を払っていく――雨滴が掻き出された次の瞬間にはまた別の雨滴――それが己の研究の進捗を連想させる。
手持ち無沙汰のため息を紫煙に溶かして吐き出すと、薄く開いた車窓から煙が外に流れ出していった。
どうにも自分は仕事を楽しめていない――仕事への愚痴が体内に溢れている。
自分が想定していた進捗より、研究の進行が完全に遅れているのだ。
『脳の機械的補助及び処理能力の拡大』――それが研究テーマである。
簡単に言い換えれば、大脳欠損に備えたバックアップデータ作成技術の確立と生体脳の機械的補助とでも言うべきものだ。
そして私は3つの大きな問題に直面していた。
まず第一に、脳の処理能力拡大のための前提として、人間の生体脳を解析して情報が如何にして伝達、管理されているかを完全に把握しなければならなかった。
感情、思考、本能――それらは脳の中で発生する電気信号でしかない。
そして電気信号であるならば、それらのデータはすべて保存、複製、再生、移動が可能なのだ。
つまり、脳の三次元的マッピングを完成させて化学シナプス、電気シナプス、複合シナプスの経路を完全解明することが研究には必至であった。
現在、ある程度は解明されているが、自分の研究が必要としているレベルにはまだ足りていない。
人の意思を完全に復元するためには、電子ひとつ分の誤差も許されない――完全に解析できれば、ある時点での一個の人間の記憶と思考を完全保存することが可能になり、それは言い方を変えれば、データではあるが人間を永続させることに成功したと言っても過言ではない。
ただし、すべてのデータを正確に採取できたとしても、それで終わりではない――ここからが第二の問題だ。
一個人の記憶と人格を保存できたとしても、それを再生する手段がなければ意味はない。
移動もできないほど巨大な記憶装置の中に一個人の記憶、思想、人格が眠っていることに何の意味があろうか。
私が望むのは人間サイズの人工人間、もしくは補助電導脳が頭蓋骨内に封入された改造人間である。
よって受け皿となる小型のCPUの製作も必要不可欠だった。
人工脳の中で発生する大量の情報を処理するためには大量のトランジスタが必要不可欠である――だが、すでに量子力学的限界に近いとされる数Nmサイズのトランジスタの開発には目処がついており、この技術を流用すれば記憶人格の受け皿になる補助電導脳の完成も遠くはない。
仮に現状以上の品質の受け皿を用意しなければならないのであれば、記憶の入ってない生身の脳が必要になる――補助電導脳の性能はそこまで進化している。
だから、研究成功の暁には人類史が大きく変化すると私は確信していた。
だが、腹の立つことに研究は上手く進んでいなかった。
第三の問題――予算である。
いくつかの実験により理論は再現可能な現実と証明されている。
サンプル収集のための被験者は自分を含めて複数人は確保した。
被験者たちはすでに手術済みであり、被験者の頭蓋骨内に設置された観測機によって収集されたデータは日々積み上がっている。
「1000億寄越せば世界を変えてやるわよ」
所詮は拳2つ分の大きさの臓器が処理できる情報であり、その解析は難しくない――だが、その期待は驚くほどあっさりと裏切られた。
脳が処理している電気情報の変化には限りがなかった。
短期記憶、長期記憶、そして動物としての本能――精神的状況、身体的環境の変化――あまつさえ人は自分で自分を騙すことさえする。
一人当たり1ペタバイトと予測されていた脳の記憶情報量は複雑に交差しており、それを観測することはまるで宇宙の深淵を観測するような、あるいは深海を探索するような困難を伴っていた。
その変化の観測は個人の所有するPCで処理できるはずもなく、解析にはスパコンの使用が不可欠だった。
現実として大学のスパコンをほぼ占有して解析しているのだが、それでも解析が追いついていない。
それに加えてスパコンの使用時間について各学部での綱引きがあり、現在以上の占有は難しかった。
その結果として研究は遅れに遅れている。
教授を通して学長に圧力を掛けて貰っているが、先行きはわからなかった。
いまのペースでは一個人の記憶データの完全解析と保存、再生に十数年単位の時間が必要だと思われた。
だから、何か別のアプローチが必要だと私は考えるようになっていた。
「……なんだか妙に腹が立ってきたわ」
研究費を寄越せ、そうすれば世界を変えてやるって言ってるのに――深く吸った煙草の煙を吐き出す。
世の中には馬鹿が多い――何を優先すればいいのかわからない無能どもが私の邪魔をしてきている――腹立たしいこと、この上ない。
「いつかかならずとっちめてやるから」
ムカつく教授たちを脳内で惨殺する――不健康な思考と自覚していたが、気の済むまで続行した。
雨の音は続いている――煙草の先端にオレンジ色の光――ゆっくりと煙を吐き出す。
週末は友人を呼び出して憂さ晴らしでもしようか――幸いにも友人の職場は近い。
彼女は大学に併設された学園の教師をしているのだ。
「あたしも教師になっていれば……」
学生たちを相手に適当な授業をしながら、暇な時間を研究に充てる――面倒のない状況にいた方が、研究の進捗が良かったかもしれないと妄想する。
己の才能には自信があり、成功できるという確信があった――問題なのは才能が多方面にありすぎたことだ。
物理でも数学でも哲学でも医学でも――興味のあることはすべて正確に理解することができた。
興味のある講義は片っ端から受講し、他校にも聴講として紛れ込んだ。
他人より早く理解し、他人より早く再現し、他人より早く進むことができた。
だからこそ、自分の進路を選択するのは難しかった。
ある意味で充実し、違う意味では虚無に近い研究者生活――比較すれば教師になった友人は充実した生活を送っている。
それは傍目に見ていて理解できた。
生徒受けも良いようで、学生たちと談笑してる様子を目撃したことは何度もあった――自分もそこに一緒にいれば――。
「……駄目ね、絶対にふざけてしまうわね」
自虐的な笑みが浮かぶ。
友人とは気が合いすぎるのだ。
おっとりとしていて、それでいて芯がある友人に甘える癖が自分にはある。
ぬるま湯のような環境であれば、自分がどれだけ自堕落になってしまうのか予想できた。
「結局、追い詰められなきゃ仕事しないのよね、あたしって……」
我が事ながら呆れてしまう――だが自分の性格は自分が一番把握している。
困難や問題が発生しなければ、自分の本気に火が点くことはない。
同時に甘えをなくせば自分は何でもできると認識していた。
どの進路を選んでも成功できるのであれば、どれを選んでも変わらないはず。
ならば現在までに人類が証明することができなかった問題を解決するという知的挑戦――最も面倒で厄介そうな進路を選択し、大学に残って研究を続けることにしたのだ。